日曜日にうってつけの日
もう真夏だった。
渋谷駅近くのボルダリングジムへ向かう、僕と息子は半袖短パンで歩く。地下鉄から地上に出ると想像通りの青空が渋谷には広がっていて、街を歩く人たちもまた、もう夏だなって顔をしているような気がした。
渋谷のボルダリングジムへ行くのは久しぶりで、すでに課題が変えられていることを知っている僕らは、今日は何個課題を落とそうか、とか話していた。
ジムには時間ぴったりについた。
まだ誰もいない。2人で新しい課題を何個かやってみる。
次第に知り合いの親子がやって来て、ジムは騒がしくなった。ジムのスタッフの人も教えに来てくれてさらに賑やかになる。
僕らはそれぞれの最高グレードを落として、次のグレードを挑んだ。2人ともダメだったけど、何かしらは掴んだんじゃないだろうか。
上手い人はどんどん上手くなる。僕らはちんたら上手くなる。
昼ごはんは二子玉川で弁当を買い、兵庫島公園で食べた。
弁当を片手に多摩川の河川敷を歩いていると、公園の人混みが見える。レジャーシートを敷いた人たちで公園は賑やかだった。
キラキラと水面に陽射しは輝き、小学生から保育園くらいの子たちが肩までびっしょり浸って遊んでいる。岸辺にはそれらを見守る親たち。スマートフォンを片手にした彼らは、子供たちの嬉しそうな笑顔を写真におさめようとしている。
木陰は人混みでごった返してたけど、僕ら2人はぐるっと公園を回って、小さな木陰のスペースを見つける。
男女のカップルが2組、合コンみたいなグループが1組。家族が2組いた。
どこもかしこも缶ビールや酎ハイを片手に持ち、水に入る子供達を見入っている。息子は、ご飯を食べたら川で遊びたいと言った。そうだね、遊ぼうか、って言って真夏みたいな日曜日を無駄にしないことを決めた。
多摩川の本流の方まで歩き、浅瀬に2人でを入れる。服は濡らすなよって息子に言うと、息子は短パンの裾をこれでもかってくらい捲り上げる。白い短パンだったらブリーフパンツに見えたに違いない。
彼は水に入って石を投げたり、流れを感じたりしていた。
彼が川で遊んでいる間、買ってきた缶コーヒーを飲みながら、河川敷に座っていた。
真っ裸になって遊ぶ小さな女の子と男の子。あんな風に遊んでたぼくらはいつから男女を意識するんだろう。
芝生に寝転ぶ女性の露出した肌に色気を感じ、もうあの子どもたちのように自然に遊ぶことはできないんだなって思う。
3時になったので家に帰る。
夕食はカレーだった。僕らはとにかく嬉しくて、カレーを作った妻に今日がどれだけ素晴らしい日か話した。
土曜日の空、雨降りの日。
丈の短いスーツを着た、小太りの男性。ビニール傘をさして、交差点で立っている。
水曜日、雨が降っている。小雨と雨の中間くらいで、どっちつかずの雨だ。
雨の飛沫は背負ったリュックに飛ぶ。
駅前公園の前には、保育園バスが来るのを待つ母親と子供の群れ。急ぎ足で過ぎて行く出勤前の人波。
赤信号でも歩行者は横断歩道を渡る。車はクラクションを鳴らしはしなかった。歩行者が通り過ぎるのを無言で待っている。歩行者は急ごうとしない。
そこに、音楽は鳴っているか?
世界の音を集めてメロディーを作る神童さえ、いまは無言だった。電車が駅から発射する音。10日で響くアナウンスの声。歩く音。
すき家の横を通り、信号無視をして改札まで歩く。
Bluetoothが結ぶネットワークには、世界中のポップミュージックが鳴らされている。
耳につけられたコードのないイヤホン。マシーンから体の中に閉じ込めた音楽。
4分33秒後の音。
それはミュージックか?
その時、僕は電車に乗って、サイズの合っていないスーツ姿の男の後ろ姿を思いだす。
彼が初めて恋をした人の顔、愛する女性を思い浮かべようとする。
土曜日、息子の同級生と一緒にこどもの国へ行った。午後から嵐のような風が吹く、と天気予報では言っていた。
女の子2人に男の子1人だった。彼は気にする様子もなく楽しそうだった。3人並んで、作った風車を回すために走り去って行く。
僕は僕を感じようとする。
たとえば、僕の欲望を叶えようとする。欲しいものを、名声を。果てしないお金を。
僕は僕の欲望に耳を傾ける。僕は他者を羨んでいる。あれが欲しい。これが欲しい。あの子はどっだった、この子はどうだった。
僕を知るために必要なのは他者か。
こどもの国を歩く小さな3人の後ろ姿。
曇り空、強い風。ベビーカーを引く音。遠くから聞こえる声。はしゃいでいる。笑っている。泣いている。
丈の短いスーツの男はいつのまにかどこかへ行ってしまった。駅前の交差点で別れたのかもしれない。反対へ進む電車に乗ったのかもしれない。
駅のホーム。たたんだビニール傘をちょんちょんと叩く。電車がやって来る。座るスペースはないけど、次の駅で降りそうな女子高校生がいる。目の前に立って携帯電話を取り出す。
土曜日のことと水曜日のことが混ざる。
あれだ。智恵子抄のあどけない話に似てるんだ。この街は息子たちの街であって、僕らの街じゃない。
ここには本当の空がない。僕の本当の空は、遠い北、置賜盆地に浮かぶ空。
空を失って、スーツの丈を手にしても、その代替としては割に合わない。
それなのに、息子たち3人並んで走る後ろ姿は空そのもので、僕は本当の空を彼の中に見つける。
妻は母親同士で話をしている。
ベビーカーを引く音が少しずつ離れて行く。息子たち、母親たちの間に父親たちは歩く。
風が吹くたびに、寒い、と声を漏らしながら。
土曜日の朝、日曜日の朝
土曜日は風が強かった。
横浜のアンパンマンミュージアムへ行こうって家族で話をした。
予想はしてたけど、行ってみると子連れの家族でごった返してた。きっと、みんな昨日までの天気につられてきたんだと思う。僕らもそう。昨日までは。ずいぶんあったかくて、気分はもう夏だったから。
アンパンマンミュージアムへ行こうって話してたのは朝で、朝は晴れてた。行くことを決めた10時くらいから曇り始めて、思いのほか気温は上がらなくて、少し季節が逆戻りした感じ。
僕らは昼前に家を出て、下の子が眠りについたタイミングでご飯を食べようと思ってた。お金持ちってわけじゃないから、アミューズメントパークの中で食事なんかしないさってね。
だけど、上の子は空腹で発狂寸前。もうアンパンマンミュージアムって歳でもないのについてきてもらった手前、仕方がないから彼にだけ1000円もするハンバーガーを買うことにした。でもね、店では食べやしないぞってね。どうせ、でかい箱にちっさいのが入ってくるんだろうってね。でもさ、テイクアウト用の箱のを開けたら立派なハンバーガーが入ってた。まあ、1000円分の大きさはある。しかも美味しかった。こんなんなら、列に並んで家族で食べてもよかった。
それから、強風に吹かれながら昼食を探し求めて歩いた。下の子は一向に眠ろうとしないから、もう諦めてた。余計、アンパンマンミュージアムで食べたらよかったなって思いながら。なんて施設かも覚えてないけど、全然人通りのないビルの一階に飲食店の看板があった。安そうだよって妻が言ったから、安そうだねって店に入ると確かに安かった。
ただ、大して美味しくもなかった。家族みんなで食べたから楽しかったけど、1人で来てたら悲惨だったな。
教訓としては、アンパンマンミュージアムを侮るなかれ、だ。
昼食を食べ終え、また、強風に吹かれながらみなとみらいのマークイズまで歩いた。なんとなく買い物がしたかった。
買い物が嫌いな上の子は暇そうにしていて、僕らはぐるぐる歩き回り、紅茶ポットと茶色のズボンを買った。
桜木町の駅に着いたのは17時くらい。電車に乗って窓の外を見ると晴れ間が見えた。
なんか晴れてきたね、と妻に言うと、午後から晴れるって言ってたからね、と苦笑いして答える。
天気予報を信じすぎても良くない。
家に着いたのは18:00くらいかな。
翌日の日曜日は晴れた。日差しが強くて、真夏みたいに暑いんだろうなって思ったけど、天気予報じゃ気温は上がらないらしかった。
多摩川の海の方、会社の人たちとリレーマラソンに出場した。息子は1キロランをした。
子どもは3人来てた。5キロを走った女の子が息子の一つ上、何にも走らなかった男の子は二つ下。出会って30分くらいで親友みたいに遊んでた。
息ができなくなるくらい、走った。日差しは強かったけど、確かに気温は上がらなかった。走るにはちょうどよかったのかな。
何から逃げてるのか、何を追ってんのか。
小説とか読むと、薬やって、ダメになって、アル中になって、恋人と別れたり、セックスばかりしたり、そんなん多い。人間はどんなになっても人間なんかな、っていうペシニズムだよね。あの痛々しい感じ。あれが好きなんだけど、走るってそんな感じだ。
馬みたいに健康体で、アルコールなんかに溺れなくて、恋人との別れは、あってもなくても大なり小なりで、セックスなんかも大なり小なりで。でも、あれに似てる気がする。
まるで、僕らはどれだけ苦しんで死ねるのかを争ってるみたいだから。
生きるってそんなもんなのかな。
レースは信じられないくらい早く走れた。まだ、速くなれるんだって思うと、嬉しかった。
陽が傾くと気温は下がり、仲良くなった子達は、最後までバイバイを言い合ってた。
僕ら親子は、今日のご飯がカレーだって知って、それこそ、今日がこんなに素晴らしい日でいいのかって言いながら帰った。
鶏も卵も豚も、ご飯も、何もかも、タンパク質の日。
未だに。二週間も前の結婚式のことを引きずってる。
大学時代の友人と会ってからは順調そのもので、仕事は遅くなっても、寝不足でも、妻が苛立っててもあまり気にはならない。
こと、妻に関しては、彼女が苛立っても何しても、愛おしい。こんな歳になったってのに、思春期みたいに彼女のことが好きなのはどうしたものだろう。
結婚式の日、感性を衰えさせないようにしているんだ、と大学時代の友人は言ったので、僕は自分自身の感性が衰えていることに気づいた。
淡々と僕らは話し続けて、真夜中に溶けていく。車も通らない駅前の通り。煌々と輝く、居酒屋の光を残して。
深夜3時の夜、何も覚えてない。居酒屋で酔いつぶれた女が寝ていた。会計を済ますと、緩い酔いが頭を回る。感覚だけが異常に冴えている。その状態が未だに続く。真夜中、僕らは彷徨う。
ファミリーマートでおにぎりを買い、ボルダリングジムへ向かった。火曜日は空いていて、ほとんどが顔見知りだった。
長身でインテリな常連の人が、向かい側の傾斜の緩い壁に挑む。最後のゴールにたどり着くと歓声が上がる。僕らはビールのジョッキのかわりに拳を重ね合わせる。ヨレヨレでフラフラな足取り。ジムの端に座り込み、休憩中の人たちだ話す。
どんな靴がいい、とか、どこの山へ行くのか、とか。山の話ばかり。
気づいたことをメモしていけば、それなりに知識はたまる。外山滋比古の『思考の整理術』に書いてあった。
言葉は感情そのもの。記憶が忘却の渦に飲み込まれていく。とりあえず、残しておけばいい。いらなかったら後で捨てればいい。
家の本棚にはノートが山積みにされている。くだらない願望ばかり書いていた。それから、それなりに大切なこと。つまり、ほとんどが僕自身。捨ててやろうと思う。どうせすぐまた、僕自身は溜まっていく。永遠に繰り返す、コンピュータのバックアップ機能みたいに。
家に帰ると台所にはご飯が準備されている。明かりをつけると、妻と息子2人の痕跡がある。大小は問わない。それらの痕跡が感性に触れるのか、感性が痕跡を見出すのか。
鶏が先か、卵が先か。
鶏にしても、卵にしてもタンパク質が豊富で、疲れた体にはよく効く。
夜ご飯は豚肉だったけど、豚肉にももちろんタンパク質は入ってる。ビタミンBも摂れる。脂もうまいから、鶏肉よりご飯がすすむ。
水曜日になっても、相変わらず月曜日みたいな気分
登るか、走るか、そればかりしてるみたいだ。
仕事は順調だけど、いつだって順調ってわけじゃない。要は、かなり順調でってこと。
友人の結婚式で水戸へ行った時、ボルダリングジムへ行った。小学生くらいの男の子が、難しい課題をこなしていく。足の先から指の先まで鈍感な場所はない。鋭敏に神経が張り巡らされ、コントロールできないものなんか何もないみたいだ。あいつらはいずれ世界だってコントロールしかねない。
東京、正確には神奈川へ戻ってきて、ホームのボルダリングジムへ行く。強い常連の人が、ガツガツと登る。まさにガツガツと。あらゆるものを力でねじ伏せるように。力こそが最大の技術だ、とある格闘家は言った。その通りだ。力こそが最大の技術だ。
壁についたボルダリングのホールドを指二本で、そこ以外持つところがない、という繊細なアプローチでリーチするとそのまま二本の指で体を左右に振る、彼らの指は折れない。
数ミリのズレが彼らの指を壊すことになったとしても、彼らは恐れず、そのポイントへ指を入れる。大丈夫だ、ダメなら指を抜けばいい。瞬間瞬間に訪れる選択を間違えることはない。
不安定なホールドへ足を移し替えた時、支えていた体がマットへ沈む。太ももほどある腕に血管が浮き出ている。
僕は、世界をコントロールする力も、世界をねじ伏せる力もなく、できるものをできる限りやってのける。どちらへの憧れも抱きながら、どちらへ行くべきかもわからずに。
ボルダリングが終わると、走って帰る。体は弱々しく、脱力している。あと何キロ走れるだろうか、なんて考えている。
灯りの消えた恵比寿ガーデンプレイスを通り抜けると、二、三組の男女が手を繋がずに歩いている。肩が触れそうな距離。去り際に声が聞こえる。光の消えた恵比寿ガーデンプレイスは、夜の穴みたいに真っ暗で、でも東京の夜だからそんなに暗くなくて、男女のカップルの姿がやけに印象的に映る。この場合、僕は何に対して印象的だと思ってるんだろう。
道の通りに抜けると外に出された飲み屋の客の声が響く。駅へ向かう人の群れ、喧騒とまではいかない喧騒が信号待ちに屯う。
アメリカ橋から中目黒の方へ抜ける。車以外何も来ない。まばらな光が道を照らし、空を照らす。目黒川の遊歩道へ着くと、花見を見逃した花見客がビール缶を片手に笑いあう。恋人たちは抱き合い、僕は無言で息を吐く。
三軒茶屋で走る気力が失せた。電車に乗って最寄りの駅へ向かう。さあ、家へ帰ろう。
「この本持ってきなよ」と一冊の本をくれた。
大学時代にいつも遊んでたやつ。いまは学校の教師をしてる。高校で教えている。
そいつは昔から話がうまかったけど、学校のことや家族のこと、あらゆるエピソードの引き出しが増えたみたいだ。
カーナビがついてる車で、カーナビなんか使わずに2次会へ向かおうとするから、しっかり迷った。といっても30分くらいで、主役なんかは1時間も遅れたんだからまだマシな方だと思う。
「『ジーザス・サン』って本、これでもう短編集は充分って感じだ。」って彼は言った。
僕らは無宗教国家で、ジーザスもサンもあったもんじゃないけど、一年前になんとなく別れちゃった女の子の話をする彼の声は、ジーザスでもサンでもいいから、届かないかなって思う。どちらにしても、無宗教国家で、2次会への道もあやふやで、コンビニによって、2次会の場所を探してる僕らにとっちゃ、ジーザスもサンも気にはならない存在ではあった。
でも、声くらいは聞いてるだろう?
通勤の電車の中で『ジーザス・サン』を読んで、走ったりボルダリングしたり。それで、そいつは連絡くれるって言ってたのに、全然くれやしない。ジーザスだよね。全く。
- 作者: デニスジョンソン,Denis Johnson,柴田元幸
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はるうらら
季節が変わったからだろうか。
駅前の横断歩道を渡る男性。大きな音で携帯の着信音が鳴る。男は意に介さず歩く。
駅から出てきた人の話し声と一緒に、携帯の着信音は響く。車は通らない。頭の上で、電車が走り出す音。離れていく、着信音が、電車の音にかき消される。
少し、湿った空気。心地よい違和感が、肌に触れる。数年前までは望郷の念に駆られていた。桜は散った。桜前線はまもなく東北へ向かう。桜の咲く入学式にも慣れた。
月が綺麗に出ている。あたりは明るい。
季節が変わったからだろうか。得体の知れない感情が肌に触れては過ぎ去る。
優しさのような、懐かしさのような、悲しさのような、痛み。心地よさでもあって、目を瞑り、息を吸い込み、触れては去るその感情に浸る。
忙しい仕事もある。
また明日、早く起きて、仕事へ向かう。
月曜日の有給の日
出張の後、余裕を持たなかった。
何も書かず過ごした。
『幸福な男』を読んだ。
『思考の整理学』を読んでる。
大学時代の友人の結婚式へ行った。旧友たちと会う。仲よかった友達とひさびさに会った。変わらない。きっと変わったのかもしれない。でも、同じように僕らは歳を重ねる。互いに変わりつつだから、変わってないように思える。
おじさんになっても、おばさんになってもいい。僕らは互いに歳をとって行く。互いに変わっていく。
『ジーザス・サン』というタイトルの短編集をもらった。とっておきの短編集だ、と言う。
少し読む。道に生えている見えない棘に刺されているみたいな物語だ。何でもかんでも隣にある。本当に、何でもかんでもだ。
心しておきなよって感じの小説だ。
結婚式の2次会に女の子はこなかった。女の子が一人でもいると楽しいのだけど、そんなもの。
グダグダと酒を飲む。
最後には3人だけになって、もっともっとぐだぐだと酒を飲む。
真夜中の水戸駅前の交差点は誰もいない。車も通らない。飲み屋は全部閉まってる。どこからかスケートボードの音がする。
一軒だけ開いてた飲み屋に入る。酔いつぶれた女の子が男の子に絡んでいた。男の子2人に寝取られたかったのかもしれない。彼女は横になったまま、酔いつぶれ眠りにつく。太ももがあらわになったままだ。
お会計をしたのが3時過ぎ。ホテルに戻り、4時くらいに寝る。8時半に起きて、友達と話をする。昨日の残りの缶コーヒーを飲む。
10時にチェックアウトする。日立駅へ向かう。昨日のことを思い出す。何にもない、何も思い出せない。ぐだぐだと酒を飲んだだけ。楽しかったけどね。
感情だけが暴走して翌朝を迎える日、虚しさを覚える。朝、車が通り過ぎる音、電車の進む音、車内アナウンス。反動が心をえぐる。まるで、陽の感情を使い切ったみたいだ。
日立駅からは海が見えた。曇り空。水平線がぼやけている。
家へ帰ろう。
満たされることのない、まだやり足りない気持ちのまま、帰りの電車に乗る。また会おう、って言った友人の言葉が蘇る。また、会おう。僕はそう思う。
特急ひたちに乗る。
全席指定だが、指定のいない席に座れるという、未指定券を買う。乗務員に席の座り方を聞いて、納得する。
ローソンで買ったコーヒーを窓の下に置く。切符を口にくわえ、メモ帳を取り出す。ランダムに言葉だけを羅列する。
繊細さと感情、不安定なバランス。不安定にバランスを取る不細工な僕らは、携帯電話によってつながりあい、繋がろうとしない。
どうせ明日はやってくる。ロクでもない頭じゃ、何も思い出せない。感情だけが一人歩きするだけだろう。
だから、また、どこかで会えばいい。